芭蕉という人は、俳句の世界ではものすごく偉いらしいですね。
という書き出しで始めるからには、言うまでもなく、僕は俳句の世界における芭蕉のauthorityについて大いに疑問を抱いているわけです。ひとまず芭蕉の個々の俳句についての検証はまた次の機会に譲ることとしますが、少なくとも芭蕉の俳句を鑑賞する人たちは、逆説的な言い方になりますが、僕たちが永遠に芭蕉を理解することが出来ないという事実を前提として認識しておかなければならないように思います。
つまり、言葉の印象(言葉の意味そのものではない)の流動性ということです。
たとえば、「革命」という言葉が、60年代の若者たちと現代の若者たちとに同じような印象を持って受け取られるということは、まず考えられません。
また、「白米」という言葉の印象が、先の大戦の最中における小学生たちと現代の小学生たちとの間で共有されることなどあろうはずもありません。
無論、以上2つの言葉についてだけでなく、あらゆる言葉はある一つの時代においてある一つの印象を形成すると考えられます。そしてその印象は決してある一点に定まることがありません。
芭蕉に「一家に遊女もねたり萩と月」という句がありますが、たとえば、この句の中の「遊女」という言葉の印象を僕たちはどのようにして感得すればよいのでしょうか。
できないのです。
どんなに頑張って芭蕉の生きていた時代の状況に迫っていったとしても、絶対に芭蕉の言わんとした「遊女」の印象を僕たちは感得できないのです。ある一時代の雰囲気、空気感といったものやそれに包含・作用された言葉の印象の諸相は永遠に復元不可能なものであり、また感知不可能なものであります。
俳句における「普遍性」ということを強調する人たちがいます。
しかし、その強調には言葉についてのデリカシーが全く欠けているように思います。
彼らが普遍性と言うとき、「一家に遊女もねたり萩と月」の「遊女」の印象は明らかに彼らの時代における(無論、時代考証等を経た上での)それに引き寄せられざるを得ません。しかしながら、それは芭蕉の意図したものでは決してあり得ないのです。
自らの時代に言葉を引き寄せて、その本来の印象を感得したつもりになって、それが「普遍性」だとはなんとも愚かしい有様ではありませんか。それは自らの主観と立場を過剰に信頼した、現代人たちの傲慢と言わざるを得ないでしょう。
すなわち、言語表現たる俳句に普遍性などあり得ません。そもそも普遍性という言葉は、多分に西欧の一神教的な基盤をもって成立している言葉であることを見逃してはなりません。僕は保守論客たちのいわゆる「日本は八百万の神のまします多神教の国で・・・」という語り口には無理があると考えている者ですが、それでも「普遍性」という言葉があまりにも日本の風土や日本人にそぐわないなという感じはあります。
以上の議論は、厳密にそれを敷衍していくと、俳句に限らず、仮に読者と作者が同一の時代にあったとしても、読者は決して作者の意図したところの印象を感得することができないというところにまで行き着きます。つまりここで言っているのは、認識論の問題ではなく、作者が作品を作っていた時期とそれが読者のもとで受容される時期が確実に異なるということです。
たとえば、卑近な例を出して恐縮ですが、「ゲイ」という言葉の隠微な響きはレイザーラモンHGなる者の登場によって極めて短期間に一種の市民権を獲得しました(ただし、そこでは「ゲイ」の本来的なニュアンスはあまり強調されていませんが)。言葉はある一瞬間において、その印象が大きく変貌するということがあり得ます。
しかし、そこまで話を進めてしまうとなかなか手に負えなくなるので、敢えてここまでのまとめとあるいは今後の議論の進展について予感めいたことを言わせてもらえば、現代においてさえ我々は自身以外の俳句作品をその作者の意図するところによって鑑賞することが厳密にはできないのだと思います。しかし、作者の意図するところの感得を希求するという営為こそが意義あることであり、その営みがあるからこそ、この全世界における全存在における全現象はその固有のstoryを保持しうる、ということもまた確かであるように思われます。
あるいは、芭蕉なり虚子なり、ある過去の一時代の権威がもてはやされるというのは、現代の俳句や現代の俳人が疲弊していることの何よりの証左です。
みんな現代における眼前の自句を直視したくないのでしょう。